大学教員は「忙しい」か?

 ちょっとあちらこちらのブログを見ていたら、その中に大学教員の「忙しさ」に疑問を呈する記事を見つけた。「雑務」に追われて忙しいと嘆いている大学教員を民間企業に勤めたこともなく、民間企業の「忙しさ」を知らずに良く言うものだと批判している。

 この議論はそもそも間違っている。というのは、「忙しさ」というのは相対的なものではなく、絶対的なものだからだ。ある人が「忙しい」と言うのは、その人にとって「忙しい」のであって、他人と比べて言うのではない。

 第2に民間企業に勤めている者全員が忙しいわけではない。会社員は公務員より忙しいと言うかもしれないが、ほとんどの会社員より内閣総理大臣(という公務員)は忙しい。私の大学には、たいていの大学同様、正門に守衛がいるが、民間企業に勤めている彼らはどう見ても私より暇そうだ。あまりに暇なのか、ときどき守衛室に座りながら居眠りしている姿を見かける。

 守衛の仕事は暇そうだが、しかし、居眠りなどせずに守衛としての仕事をしている以上、持ち場を離れることはできないから、彼らは仕事に「忙しい」はずだ。もっとも彼らが「忙しい」仕事をしているという意識はないだろうが・・・。

 こうして、「忙しさ」は人によって様々で、また仕事の内容によっても違ってくる。私の場合、会議が多く、その資料作りなどに追われていると、「忙しい」と感じる。講義コマが多く、また複数の大学を1日で掛け持ちして教えていたときは、その準備に追われるとともに移動の労が加わり、やはり「忙しい」と思ったものだ。それに対して、研究をしているときは、たとえ締切に追われていたとしても、研究に専念していられる限り、つまり他の「雑務」が入らない限り、「忙しい」とは感じない。しかし、講義を数コマ担当し、おまけに学内、学外の会議や研究会がいくつも重なり、その資料作りもしなければいけないときは、「忙しい」ので研究はできないが、それにも関わらず、引き受けた原稿の締切や学会やら研究会やらの報告の日が近づいているときは、とても「忙しい」と感じる。